2015年06月17日
前の芽の段階で
・・・・・・っということで、歳をとるにつれ、若い時のような失敗はしなくなるものである。
・・・っと、思いたい。
若い頃に失敗した時の自分に戻れるのなら去眼袋方法、「オマエなぁ~、そりゃぁアカンよ」とアドバイスしてあげたい。
でも、失敗するのが若者の特権だから、大いに失敗してもいいとも信ずる。
まあ、人生ってそんなものだろう。
時と場合にもよるが、失敗すると分かっていても若者には好きにさせることも必要だろう。
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【老子】の考えの基本に、「無為自然」がある物理課程。
言葉の意味は、何もせずに自然にしているのが一番だということ。
この言葉はとても誤解されやすい。
無気力人間の勧めみたいにとられるからだ。
「無為」をもう少し分解してみると、「無を為す」である。
相反しているでしょう?
老子の言葉にはこのように一見矛盾する言葉が多い。
「無用の用」なんかもその一例だろう。
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何もしていない状態を積極的にするといっているのだが、ピンとこない。
本当に良い政治というものは、一見何もしていないように見える。
それは、問題が大きくなる前に、その問題を解決してしまうからである。
大問題でも、その初期はとても扱いやすい。
扱いやすいうちに処理してしまうから、大問題に発展せずに済むのだ。
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例えば、お隣の国のMERS問題。
明らかに初期段階の対応が間違っている。
その処理を間違ったために、国家の経済や信用問題まで発展してしまった。
例えば、IS(イスラム国)問題。
シリアの反アサド勢力として利用していたつもりが、今では手に負えなくなってしまった。
EUを揺るがすギリシャ問題だって、こうなる前に手が打てたはずである。
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大問題に発展する前に、芽を摘むことが如何に大事であることは分かるだろう。
だが、言うは易しく行なうは難しである。
何が将来大問題になるか、見分ける目を持っていなければならないはずだ。
それが分かれば苦労はしないよ・・・だろう。
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実は、老子の「無為自然」にはその答えが含まれている。
「自然」である。
これは老子の根幹となる思想である「道(タオ)」を指している。
「道」とは、自然の摂理、天の法則である。
この「道」とは何か、極めるにはどうすればいいかを【老子】という書物は教えているのである。
老子の教えを【道教】というのはそのためである。
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だが、「道」というのを理解しようするととても手強いテーマであることに気付く。
人道に反したこと、人間の欲が入った判断、自然を破壊する行為などを挙げれば何となく「道」を説明している。
じゃあ「道徳」か?
それはまた人間の匂いが強すぎて、「道」とは異なる。
老子は同時代に流行っていた「儒教」に対するアンチテーゼと解釈すれば、孔子が唱えた道徳を基本とする教えとは異なるのである。
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道って分かりにくい。
でも、MERS問題、IS問題、ギリシャ問題で、それらが大きくなる前の芽の段階で、「道」から外れた行為なり判断があったのではないかと、何となく分かるような気がしないだろうか。
その芽を摘むことが出来た者がもしあの時点に戻ることができたなら、間違いなくその芽を摘んでいたに違いない。
それが出来ていたなら、いまはこれらの問題に煩わされない、何もない平凡な世の中になっていたことだろう。
それが出来る為政者は、民衆から見れば、何もしていない凡庸な人間に見えるだろう。
それが、「無為自然」という意味である。
Posted by はそせそぬ at 15:22│Comments(0)
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